置物のようなおばーちゃんの存在が女性性の否定につながっていた〜明美ちゃんセッションシリーズ3
置物のようなおばーちゃんが女性性の否定に
一緒に住んでいたおばーちゃんは隠居生活だった。
60歳の定年を過ぎたら「今まで充分働いたから」と
一日中テレビの前で座っていていた。
本当に何もしない。
無表情でほぼ何も話さない。
歩くのはトイレに行く時ぐらい。
そんなおばーちゃんを心配して近所のおばあちゃんが遊びにきていろいろ話していくれど
生返事で全く楽しそうにない。
生きてて何が楽しいんだろうと小学生ごころに思ったぐらい、座っているだけだった。
何もしないという意思だけは強くて、外に散歩に行かせようと外へ出そうそすると
華奢な体からものすごい腕力が発揮されて、玄関から一歩も外へ出ることは許さなかった。
置物のようなおばーちゃん。
本来、人はそこにいるだけで尊くて愛される存在。
赤ちゃんがオギャーと言おうが笑おうが、何をしても何もしなくても「すべて愛される存在」なのだ。
でも、「置物のようなおばーちゃん」は邪魔者の存在だった。
自分でできることをあえてしないことで母親の手間を増やす存在。
何もしないのに「ゆみかちゃんは女の子だから料理しないとね」と思いついたように人には言ってくる。
何もしないことは価値がない。
母親はパートで働きに行き、
料理も掃除も何もかも慌ただしくこなしていた。
おばーちゃんの負担も全部。
母親が何でも一人で家庭のことしないといけない=女性は苦しい=女性性の否定につながっていく。
そして、収入が少ないがために我慢を強いられる母親はかわいそうと結びついて
お金を稼がないと価値がない
とビリーフが出来上がっていったようなのだ。